太宰府 旧長沼邸 7days展 7/10日〜7月16日 その3

4日間で油彩の100号作品制作という重い荷物をおろして、展覧会も残り3日。
土曜、日曜、海の日を残して、展示モードにします。
こんどは制作という特殊な状況が抜けた分、普通の展覧会になってしまってはここまで来た甲斐が無いというものです。
この建物の雰囲気との融合は勿論、これまでの制作の経緯や、この土地ならではのもの、ここでしかできない、今、ここ、この場、瞬間、そんなものを最大限感じられるような、そんな展示を理想として取り組みました。
ここで絵を見る人には数分の時間ですが、私にとっては7日間です。この旧長沼邸にとっては数十年のなかの時間、太宰府という土地には数千年の一瞬。

白梅号の作品の足元には、蹄鉄を配置しました。
そこにいるかのような雰囲気をつくるために。
この蹄鉄は実際彼が使っていたものをもらいました。
小屋に使用済みで錆びて無造作においてありました。それを磨いてオイルを塗りました。

会場は完成しましたが、不安材料がまたひとつ。台風です。名前はマンニィ。暴風警報発令!

いろいろな人に来て欲しいかったのですが、マンニィちゃんまで来てくれるとは・・・

そしてこの日は牟田アトリエ×佐部利典彦ワークショップが計画されています。計画では庭で大騒ぎアートワークショップなのですが・・・

佐部利さんは私と同じ岐阜の画家です。もともと彼のすすめで昨年太宰府に来て、つながりが生まれました。今回は私の展覧会に合わせて、ワークショップを計画してくれました。

そとは暴風雨、にもかかわらずたくさんの地元の子どもたちがやってきました。学校なら登校停止でしょうけど、子どもは風の子です。

当然室内ワークショップです。昨年つながった福岡や太宰府の人たちも参加しました。

昼食の様子。しつこいですが、外は暴風雨。

子どもたちのパワーはすごいです。外は台風、中も台風。

福岡のケーブルテレビが取材にきてくれました。太宰府ではあまり契約者がいないそうです。福岡なら見れたのに。このカメラマンは絵が好きとのことで、時間をかけて丁寧に撮影してくれました。

また、この日は西日本新聞にも展覧会の様子が掲載されました。
記事中には長沼さんの紹介もあり、九州の歴史学者として著名な方とのこと。
何も知らずに家を使ってました。

その夜、岩田ともこのパフォーマンスが行われました。彼女は自分のルーツや存在を掘り下げていくようなパフォーマンスや、作品をつくっています。

今回は自ら撮影した映像と演説、石を投げる行為で私たちをなにかしらの目撃者に仕立て上げたのでした。

東京芸大の大学院に在籍しています。昨年太宰府で知り合い、岐阜にも何度か来ています。

台風は去っていました。

近所の方、地元の方、福岡の方、けっして分かりやすい場所ではないのですが、切れ間無く人が訪れます。天気も雨が降ったりやんだりですが、芳名帳には150人くらいの名前が書かれました。訪れたひとはもう少し多いでしょうか。

地元の方が口々に長沼さんの話をされていきます。この家でのエピソードや、人となりなど。また、長沼さんがここに来られる前のこの家のこと。
陸軍大将が住んでいたとか、豊臣秀吉が茶室を使ったとか・・・
事実かどうかはまるで不明ですが、地元の人にとってこの場所は特別なものであることはわかりました。
この部屋でお経をあげていたお坊さんも来られました。
皆さん、この家にまた来れたこと、人の出入りによって家がよみがえってきたことを喜んでくれているようでした。そして、ここで、何か展覧会などがあるときはまた来たい、ともおっしゃっていました。

私は長沼さんの存在を強烈に感じました。

白梅号を描くとき、うしろには数体の菅原道真公の土人形がありました。なんとなく気になっていたのと、小さめの作品も描きたいと思っていたので制作をはじめました。描けるところまでで、あとは岐阜で仕上げよう、そんな感じで始めました。

展覧会を見に来た地元のひとが、これは長沼さんが集めていたものだと教えてくれました。

これを描いているのをみた、天満宮の馬場さんが、天満宮内の菅公記念館にこんなのがいっぱいあると教えてくれました。この人形のよび方、・・・人形とか・・・像とかを知りたかったので今度行ってみよう、と思いました。

次回、この人は誰!この蜘蛛はまさか!?
に続きます・・・・・・

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